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中世への旅 ――授業中継 エピソードでまなぶ日本の歴史A 日本中世史の32テーマについて、生徒の心をゆさぶるエピソードをそえて自在に語る歴史の授業講座。 ■著者=松井秀明 |
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■目次 第6章 武家社会の成立 1 背中合わせの寒さ【治承・寿永の内乱】 教科書から消えた頼朝像/栄光への脱出 鎌倉にとどまる頼朝/「あっち死」の清盛 今日は重い鎧 2 天下草創のとき【守護・地頭の設置・幕府の支配機構】 耳なし芳一のはなし/春風に散る帝 初夏の舞い/殺害されたもう一人の弟 3 岩に砕ける波 【北条氏の台頭】 頼朝の死因/雪の日の惨劇 海より深い恩/ミヤコワスレの花 4 名月の武家法 【執権政治】 情けの政治家/夏の雪と式目と 皿についた味噌 5 カタカナの申状【御家人と惣領制・地頭と農民】 梅干のちから/合戦前夜の馬/船で分ける池 ミミヲキリ、ハナヲソギ 6 あこがれの花)紫【農業技術と産業の発展】 反物を買う女性/ふえる行商人 銭の病い/車のついた小屋 第7章 東アジア世界の変動と武家政権の再編 7 戦傷を癒す薬草風呂【蒙古襲来】 視力三・○/泣き笑いの御家人/帰るもの三人 歓声雷の如し/戦傷者の歴史 8 恩人を讃(たた)える絵巻物 【蒙古襲来後の政治】 一番がけの手がら/霜月騒動 柿色の服/米二斗の支給 9 護摩を焚く天皇【鎌倉幕府の滅亡】 お犬さまの時代/裸足で山中をさまよう 補給路を断つ野伏(のぶせり)/「高氏」から「尊氏」へ 最期の酒宴 10 君の戦(いくさ)必ず破るべし【建武の新政】 京童のうわさ/「尊氏なし」 「いつまで、いつまで」と鳴く鳥 九州からのUターン/いやしき正成 11 戦場からの手紙【南北朝の動乱】 運は人知の及ばぬところ/北闕の天を望む 直義の黄疸/借り物の兜・馬/守護にいどむ人びと 第8章 室町幕府の動揺と民衆の成長 12 ふたりの将軍の髭 【足利義満・義持の政治】 花の御所/一万部の法華経 土木に役すべからず/腫れ物をかき破る 13 富士から吹く秋風 【足利義教の時代】 くじびき将軍/料理人を処罰する 将軍犬死に/女連歌師登場 14 夕暮れにとぶヒバリ 【応仁の乱】 餓死者八万/赤入道/タケノコの笠 乱を終結させた富子/いくら頭をひねっても 15 美しくなる月夜【日明貿易・日朝貿易】 中国にやってきたキリン/騎馬が得意な倭寇 生糸は二○倍・刀は五倍/ヤブ蚊に悩む 綿の肌ざわり 16 ナポレオンを驚かせた国 145 【琉球王国・蝦夷ヶ島】 戦争を知らない?/赤と白のストライプ 礼節を守る/パワーショベルですくう古銭 小刀のうらみ 17 飲みまわす神水【惣の形成】 開けずの箱/ひっぱりだこの猿楽集団 太鼓の合図への罰金/山林にこもるストライキ 18 ふるまわれた枝豆 【徳政一揆】 暴政の記念碑/岩に刻んだ二七文字 一国平均徳政令/飢饉を増やした小氷河期 19 リューベックをしのぐ入港船【商工業の発達】 発見された課税帳/売れない味噌屋と饅頭屋 酒飲みはよだれを流さないで/腰刀を持つ職人たち 夕暮れの油売り/びた一文もない/あかぎれの踵 第9章 中世的世界から近世社会へ 20 戦国の国民会議【山城国一揆・加賀一向一揆】 雪の金沢/去状を書いた畠山軍 戦国時代のスタート一四九三年 生きていたのが不思議/冬は熱燗、夏は冷や酒 お叱りの御書/念仏小隊 21 栄華は一杯の酒 【戦国期の京都・戦国大名 その一】 コンチキチンの音色/一揆の思いのまま ふたたびの焦土/「梅干」と「ういろう」 風林火山と毘沙門天 22 おとら狐の恨み【鉄砲伝来・戦国大名 その二】 未知のネジ/剣豪将軍の死 小京都燃ゆ/酒は小椀一、二杯 23 シルバーラッシュの日本 【戦国大名の領国支配】 戦国のタイムカプセル/水くみは地獄の入り口 「銀の島」日本/かわた彦八 24巣Uビエルのミイラ 【キリスト教の伝来】 キリシタンの隠れ里/暴風雨が結んだ運命 入信した琵琶法師/豊後の病院 ヨーロッパに行った少年たち 「ノブナガ」の名/壮絶な死 25 水が充満する町【都市の発達】 東洋のヴェネツィア/黄金の日々 沖に賑う船/竹林の土塁 今川義元を退けた人びと 26 菩提を弔う松 【信長による統一事業 その一】 破壊された石仏/大うつけ/天下に武を布く 信長包囲網/黄金の髑髏 27 安土城の世界観 【信長による統一事業 その二】 呪いの文字瓦/「しかみの像」 「府中の町は死骸ばかりにて」 見せる城/炎のイベント 信長、炎の中に死す |
■本書「第1話」より 背中合わせの寒さ 【治承・寿永の内乱】 教科書から消えた頼朝像 一九七四(昭和四九)年四月二○日〜六月一○日、レオナルド=ダ=ヴィンチの『モナリザ』が東京国立博物館で公開され、一五五万人の観衆を集めました。これと交換で所蔵先のルーブル美術館にわたったのが『源頼朝像』です。この時、館長は多少のお世辞をこめ「この像ならば、『モナリザ』と交換しても良い。」という談話を残しました。 近年『源頼朝像』は『伝源頼朝像』に訂正され、日本史の教科書からも消えました。『源頼朝像』はそのリアルな描写から肖像画の傑作といわれ、鎌倉文化の「似絵」の代表作とされました。冷静・沈着で理知的な表情、紋様が浮き出た威厳のある枹(今でいう上着)、そして朱色の襟。多くの人が頼朝というと、この画像を思いうかべるでしょう。 しかし、ここ一○年あまり、この像は「頼朝」でなく室町幕府を開いた足利尊氏の弟「直義」ではないか、との説が支持を集めています。 今のところ、国内最古「源頼朝像」は信濃善光寺の一三一三(文保三)年製作の木像ということになります。しかし、われわれの頼朝像はまだ『伝源頼朝像』に規定されるでしょう。武家政権を築いた頼朝はどのような人物だったのか、まなんでいきましょう。 栄光への脱出 一一六〇(永暦元)年、清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)の命ごいで辛うじて助かった頼朝は、伊豆国蛭ガ小島(狩野川の中州の島)に流され、北条氏の監視下で二○年ほど流人生活を送っていました。比較的自由な立場にあったものの、ひたすら写経に明け暮れる日々でした。頼朝は当初、平氏政権に反旗をひるがえす野望を持っていませんでした。 この間大きく変わったことといえば、頼朝が三○歳の頃、北条時政の娘政子と結婚したことでしょう。政子は武士の子だけに、激しい性格。反対する父を押し切って、豪雨の中、頼朝のところに走ったのです。時政は以後、流人ですが源氏の嫡流という血統を持つ頼朝に期待をよせるようになりました。 頼朝の身辺が、にわかにあわただしくなるのは、一一八○(治承四)年のことです。四月には、平氏の独裁をきらった後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)が「平氏を滅ぼせ」という令旨(りょうじ)を発します。令旨とは、皇子がだす文書をいいます。これをすすめたのは、源氏として唯一平氏側にいた源頼政(みなもとのよりまさ)でした。 頼政は、『新古今和歌集』に歌が載るほどの歌人としてその名を知られていましたが、老齢で隠居の身でした。頼政が離反した理由は定かではありません。『平家物語』は、平宗盛(たいらのむねもり)が頼政の息子の仲綱が所有する名馬を欲しがり、やむをえず与えたところ、宗盛が仲綱の惜しむ気持ちを根にもち、馬に焼き印を押して乗り回し侮辱を加えたからだ、としています。 四月下旬頼政は、都を脱出した以仁王と三井寺にたてこもり、延暦寺や園城寺(おんじょうじ)を味方にすべく画策しますが成功せず、五月、宇治に逃げます。八〜九時間にわたる宇治橋の合戦で以仁王が戦死。手傷を受け追いつめられた頼政も宇治平等院で念仏を唱えつつうつむきざまに自害しました。 頼政は、辞世を詠んでいます「埋もれ木の 花咲く事も なかりしに 身のなる果てぞ かなしかりける」(花が咲くこともなしに、このまま埋もれ木となってしまう身は、悲しいばかりだ)―頼政の首は平氏に渡らぬよう家来により、宇治川の深いところに沈められました。七七歳でした。息子の仲綱もここで自害します。 今、平等院の裏手には頼政の墓が忘れ去られたように建っています。この戦いには、東国の武士たちも少なからず参加し、大乱の前哨戦になりました。清盛はこれに大きな衝撃を受け六月、都を福原に遷したのでした。 以仁王・源頼政の挙兵は結局、敗北しますが、以仁王の令旨は、四〜五月に東国の源氏にとどけられました。頼朝のもとへは、叔父にあたる源為義(ためよし)の一○男行家が伝えたといわれます。それ以前、頼政敗死の報が、東国御家人とネットワークのあった公家三善康信(後の問注所執事)が、頼朝に伝え、早急に奥州に逃げるよう進言しました。 しかし、頼朝は挙兵を決意します。八月一七日には、伊豆国を支配していた平時忠(たいらのときただ)の目代山木兼隆(もくだいやまきかねたか)の邸宅に夜討ちをし、兼隆を討ちとります。この日は三島大社の祭礼。兼隆の家臣たちが、黄瀬川(きせがわ)で酒宴をひらいた隙をねらったものでした。この時、頼朝に味方した武士たちはまだ少数で、父義朝と関係深い人びとでした。 八月二三日、勢いを得て相模の鎌倉にむかう頼朝に対して、清盛は大庭景親(おおばかげちか)に在京する東国武士団をつけさせ、伊豆にむかわせます。相模の平氏方の武士をふくめ、その数は三○○○騎。伊豆国の伊東の平家方の伊東祐親(いとうすけちか)も三○○騎をひきいて参戦します。両者は三○○騎の頼朝を、相模湾を眼下にする石橋山(現小田原市、今はミカンが栽培されています。西側には新幹線が通ります)に包囲します。 勝敗は最初から明らかでした。土砂降りの雨中でおこなわれた戦いは、頼朝方がなすすべなく敗退。兵は四散します。頼朝は山中の洞くつにひそんでいるところを捕われそうになりますが、平家方の梶原景時が(後に頼朝側になります)見てみぬふりをしたため九死に一生をえます(真意は定かではありません)。平家方の東国武士の中に密かに頼朝に心よせる者も多かったのも要因の一つでしょう。頼朝は真鶴岬(まなづるみさき)から三浦水軍の協力で小舟に乗り、三浦氏の勢力下にあった安房国猟島に逃れます。命からがらの脱出劇でした。 その後五○日間に、敗北を喫した頼朝の下には意外にも、関東地方の有力武士団が参陣しました。その数は二○万騎ともいわれ、「奇跡の再起」といわれます。たとえば、千葉常胤(ちばつねたね)は三○○騎、上総介広常(かずさのすけひろつね)は二万騎(疑わしい数字ですが)をひきいて一介の流人であった頼朝に命運をかけました。東国の武士たちはなぜ、敗北者の頼朝に従ったのでしょう。 以仁王の令旨の存在もその一つでしょう。また、東国の武士たちにとって、大切な先祖伝来の土地が平氏の目代により圧迫され、対立がおこっていました。こうした中、彼らは天皇の血統を受けつぐ源頼朝に土地の保護を求めたのです。頼朝も、武士たちにこれらを約束する書状を書き送りました。文面に「お前だけが頼りだ」と打ち明けるなど、信頼関係がつくられました。 上総介広常は約束の時間に遅れ頼朝のもとに到着しましたが、叱責されます。広常はこの時、「彼こそ生まれながらの大将」だと心服したそうです。 この年の秋には、頼朝の従兄弟木曽(源)義仲が信濃で挙兵、一一月には敗死するものの弟の希義が土佐で挙兵。その他、伊予国で河野通明、九州でも菊池、畿内の源氏も挙兵しました―内乱は「同時多発」的だったのです。 鎌倉にとどまる頼朝 一一八○(治承四)年一○月六日、大軍をひきいた頼朝は相模国の鎌倉に入りました。鎌倉は、源頼義が京都の石清水八幡宮をこの地に祀り、鶴岡八幡宮の基礎をつくった源氏ゆかりの地です。八幡神は以前から戦いの神として武士たちの信仰をあつめていました。三方を山に南を海にかこまれたこの地は、要害の地でした。 東国の覇者になりつつある頼朝に対して、平氏がいただく安徳天皇から「頼朝追討」の宣旨がだされ、平維盛(これもり)を大将とする数万の軍が東国に向かいます。 これらを迎え撃つ頼朝軍二○万と、維盛軍数万は富士川で対峙しました(ただし、正確な数字はわかっていません)。一○月一九日のことです。士気あがる東国軍に対して、都を出るまでのあいだ縁起の良い日を決めあぐね、合戦場に着く間にも歯抜けになる平氏は、途中で兵を徴発するありさまでした。 |
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