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19世紀から「フクシマ」まで
考える世界史23講


  
世界史との対話(下) 
   ――70時間の歴史批評――
 
歴史は繰り返すのか。今、「フクシマ」という時代に、過去と未来の“いのちの環”を対話で結ぶ。私たちの生き方を考えるヒントに満ちた世界史が現れ出る最終巻。高校生の歴史批評を収録。                   
著者=小川幸司
体裁=A5・480ページ
本体価格=2,500円
発行日=2012年9月10日
ISBN=978-4-88527-210-3
在庫=あり
   
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目次




はじめに

第48講 アルザスとドーデの『最後の授業』

   1.アルザスをめぐる興亡

   2.ドーデの『最後の授業』

   3.フィヒテのナショナリズム

   4.『最後の授業』は、フランスの対独復讐意識の産物か?

   5.ルナンのナショナリズム

   6.その後のアルザス


第49講 アメリカ民主主義の人種論

   1.「理念の共和国」にとっての戦争

   2.「ジャクソンの民主主義」

   3.南北戦争と奴隷解放

   4.インディアンの同化政策の行方

   5.「白人性」の確立

   6.「よい戦争」と「正戦論」観の成立


第50講 ゴッホの哀しみ

   1.伝道師を目指したゴッホ

   2.画家ゴッホの誕生

   3.アルルでの“いのち”の発見

   4.「糸杉」と「星月夜」


第51講 「アジアの連帯」を中東からとなえて

   1.解体していくオスマン帝国

   2.アフガーニーの思想形成

   3.イスラーム法学が直面した課題

   4.アフガーニーの「パン・イスラーム主義」と「東洋の連帯」


第52講 中国と日本の「開国」の行方

   1.「西洋の衝撃」のなかの洋務運動を見直す

   2.変法自強運動の失敗は“近代化の失敗”だったのか

   3.「西洋の衝撃」のなかの江戸幕府の非戦外交

   4.日本の経済力はどのくらい遅れていたのか

   5.世界史のなかの日本の「開国」


第53講 明治日本の北海道旧土人保護法と「小国主義」

   1.日本列島の“民族絶滅の危機”

   2.明治維新と北海道旧土人保護法

   3.「国民国家」の建設としての明治維新

   4.岩倉使節団、ロシアとオーストリアへ行く

   5.岩倉使節団のみた「小国」

   6.「小国主義」の水脈


第54講 日露戦争の光と陰

   1.台湾出兵と琉球処分2.朝鮮と明治日本

   3.日清戦争におけるジェノサイド

   4.世界史の中の日露戦争

   5.「アジアの連帯」とその挫折


第55講 浅川 巧 ―朝鮮の土になった日本人

   1.伊藤博文の韓国統治

   2.伊藤博文の暗殺

   3.韓国併合条約の“形式”と“過程”

   4.日本の植民地統治

   5.日本に流入した朝鮮人

   6.浅川巧の生涯


第56講 アラブからみた「アラビアのロレンス」

   1.「総力戦」としての第一次世界大戦

   2.青年トルコ革命と「トゥラン主義」

   3.「アラビアのロレンス」の登場

   4.ロレンスの実像を求めて


第57講 マルクスからレーニンへ、マルクスからマルクスへ

   1.マルクスとエンゲルス

   2.『コミュニスト宣言』のコミュニストとは

   3.『資本論』が提起する「物象化論」

   4.マルクス以後の社会主義運動

   5.マルクスからレーニンへ

   6.スターリン独裁

   7.マルクスからマルクスへ


第58講 パリ不戦条約の世界史的意味

   1.正戦論のなかの「祖国のために死ぬこと」

   2.近代ヨーロッパの無限定戦争論

   3.労働者の反戦平和運動

   4.集団安全保障の誕生

   5.戦間期の協調外交とパリ不戦条約の成立

   6.パリ不戦条約から日本国憲法へ

   7.“理念の肯定”と“行使の留保”という論理


第59講 オーウェルにとっての20世紀

   1.20世紀前半におけるイギリスの「帝国意識」

   2.オーウェルのビルマ体験―『絞首刑』と『象を撃つ』を読む

   3.世界恐慌からヒトラーの政権掌握へ

   4.オーウェルのスペイン体験―『カタロニア讃歌』を読む


   
第60講 ショアーへの道

   1.「ユダヤ人」とは何だったのか

   2.ヒトラーの政権掌握

   3.第二次世界大戦とショアーへの道

   4.なぜショアーを防げなかったのか

   5.悪は“陳腐”だったのか


第61講 ショアーをめぐる群像

   1.『アンネの日記』の誕生

   2.アンネが夢みたもの

   3.レスキュアーズとなった一人の日本人

   4.杉原ビザのその後

   5.フランクルの『夜と霧』


第62講 リリー・マルレーンをもう一度

   1.20世紀にうまれた反戦歌

   2.不思議な反戦歌

   3.「リリー・マルレーン」がなぜ兵士の心をとらえたのか

   4.ララ・アンデルセンの第二次世界大戦

   5.終戦のララ・アンデルセン

   6.もうひとつのリリー・マルレーン―マレーネ・ディートリッヒ


第63講 満洲事変をくいとめることはできなかったのか

   1.興隆する中国ナショナリズムと国民革命

   2.国民革命を日本はどう受け止めたか

   3.張作霖爆殺事件の事後処理と昭和天皇

   4.満洲事変への道

   5.拡大する国際社会との齟齬


第64講 南京事件の真相を求めて

   1.「一致抗日」の基盤の成立

   2.盧溝橋事件から日中戦争へ

   3.植民地喪失を“死活問題”とする帝国意識

   4.南京事件

   5.難民区の外国人たち

   6.南京事件論争を考える

   7.南京事件のその後


第65講 御前会議と青年兵士のアジア・太平洋戦争

   1.アジア・太平洋戦争への道

   2.御前会議は何を話し合ったのか

   3.開戦の最終決断の場面はいつだったか

   4.コタバルとパール・ハーバーからマリアナ諸島へ

   5.青年兵士たちのアジア・太平洋戦争

   6.“多面体”の戦争を多方向から見るために


第66講 終わらない戦争を見つめる

   1.「終戦記念日」とはいつのことか

   2.終わらない戦争

   3.“忘れられた島”となった沖縄

   4.在日コリアンの終わらない戦争

   5.「世界史」として“終わらない戦争”を見つめる


第67講 何が冷戦を終わらせたのか

   1.冷戦はいかに始まったのか

   2.朝鮮戦争が作りだした“冷戦イメージ”

   3.ベトナム戦争のなかの“いのち”

   4.冷戦を終わらせる


   
第68講 インドの「脱植民地化」の長い道のり

   1.イスラームとヒンドゥー教の“出会い”

   2.イスラームとヴァルナ・ジャーティ制度

   3.イギリスの植民地政策とヒンドゥー教・イスラーム

   4.イギリスの植民地支配の功罪

   5.ガンディーの“反近代”

   6.ガンディーの挫折

   7.「脱植民地化」の長い道のり


第69講 イラクとガザからの世界史

   1.イスラエルの建国と中東戦争

   2.パレスティナ人のパレスティナ

   3.湾岸戦争からオスロ合意へ

   4.グローバリズムがうみだすもの

   5.9・11からイラク戦争へ

   6.イラクとガザからの世界史


第70講 トリニティからチェルノブイリとフクシマへ

   1.トリニティとエノラ・ゲイ

   2.アトムズ・フォア・ピース

   3.チェルノブイリ原発事故の意味を考える

   4.「フクシマ」という時代に生きる


あとがき
 
下巻「はじめに」より

 本書は、私が長野県の高等学校と市民講座で世界史を教えてきた講義録の下巻である。読者として想定しているのは、教員、高校生、および世界史に興味をもつすべての皆さんである。
 下巻では、19世紀後半から今に至るまでの「現代」について考える。最初の第48講「アルザスとドーデの『最後の授業』」は、国民国家とは何かということを、アルザスを事例に考える試みである。最後の第70講「トリニティからチェルノブイリとフクシマへ」は、宇宙の始まりと人類の誕生から幕をあけた世界史講義全体をまとめる内容となる。
 成り立ちがやや他の講義とは異なるのが、第62講「リリー・マルレーンをもう一度」である。これは声楽家の狭間壮さんとピアニストのはざまゆかさんのコンサートのために書いた“台本”がもとになっている。狭間ご夫妻から世界史と音楽を組み合わせたいという依頼を受けて第62講が生まれ、コンサートも大成功に終わった。狭間壮さんが歌う、私の訳した「リリー・マルレーン」を、音として本書に添付できないのが、かえすがえすも残念である。
 さて、故・黒羽清隆氏は、「揮発性の言葉」が氾濫する歴史教育であってはいけないと、よく書いておられた。(例えば、加藤正彦・八耳文之編『黒羽清隆歴史教育論集』[竹林館、2010年]を参照。)「揮発性の言葉」という石川啄木の表現を使って氏が強調したのは、「民衆」とか「平和」とかが大切だと表面的な正義を語っても、生徒の心からはすぐに“揮発してしまう”のであって、平和を守る主権者を育てることにはならない、ということであった。私の言葉で言えば、「上すべり歴史教育」への批判である。何年に何があった…ということを暗記することに、歴史の裏話を香辛料にまぶした程度の“学び”では、定期考査や大学受験が終われば、忘却の彼方に消えてゆくだけなのだ。
 黒羽氏が「揮発性の言葉」に対抗して組み立てたのは、教師が徹底して調べ抜く歴史教育であった。例えば、いかに人々が「戦争」を支持し、勝利を願って身を捧げていくかを、児童・生徒が“共感”しそうになるまで徹底的に教室で再現する。そのうえで、では中国・朝鮮の立場からこの時代を見たらどうなるのかと、揺さぶられた生徒のまなざしを、別の方向から揺さぶろうとするのである。
 授業は教師が生徒に納める「十分の一税」だ(10調べたことを1喋るのが授業)と私が言うのは、黒羽氏と同じ問題意識に立つからだ。満洲事変や日中戦争や太平洋戦争は、それぞれの立場の人々が何を考えて始めたものなのかを、私は教室で追いかけている。そして世界史的な視野で、その戦争が他国の人々にとってどのような意味をもったのかをつきあわせている。さらには日本列島の中に、異なる立場に追い込まれた人々もいたのだということを、交錯させている。
 「揮発性の言葉」に関連して、私が心を揺さぶられた文章に、作家のリービ英雄のエッセイ集『日本語を書く部屋』(岩波書店、2001年)の一節がある。アメリカで生まれ、台湾・香港で育ち、日本語で文学作品を創作するリービが、原民喜の原爆小説について論じたくだりである。アウシュヴィッツをひきあいに出すまでもなく、想像を絶することから文学が生まれることは、ありえない。言葉にできないほどの悲劇からは、言葉の芸術である文学は、生まれないのである。黒羽流に言うならば、歴史の悲劇に迫ろうとするほどに、言葉は「揮発性の言葉」になってしまう。ところがリービは、原民喜の原爆文学が、想像を絶する事実を描きながら、決して読者を飽きさせない文学的な力をもっていると言う。それは、作家が徹底的に自分のまなざしで原爆を見つめているからだ。「自然現象の中の私を書く」という近代日本文学の私小説の手法が、カタストロフの文学を可能にしたという、思わぬ成果がうみだされたのである。…これがリービの分析だ。
 世界史という学問も、「現代」を語ろうとするほどに、カタストロフの瓦礫に直面する。世界史を語る教師の言葉が生徒に飽きられないためには、世界史を学ぶ教室に、“世界史を学んでいる私”が立ちあがってくるべきなのではないだろうか。リービの言葉を私風に言い換えるならば、「歴史現象の中の私を語る」ことと、生徒も応答の形で「私を語る」ことを、私は世界史の授業で目指したい。
 私が試みてきたのは、「歴史批評」という試みである。それは工夫と言うにはあまりにシンプルなものなのだが、オーソドックスな講義と、定期考査のさいの最後に出題される「興味をもった一つの講義内容について、あなたの考察を論述してください」というミニ小論文を組み合わせたものだ。「歴史批評」は、自分の都合のよい史実を選び出して勝手な論評を繰り広げるものだと危惧を抱く読者も多いであろう。歴史教育は、あくまで歴史学に基づく「歴史批評」であることを目指さねばなるまい。そのためには、あくまで「事件・事実」という第一層と、「解釈」という第二層からなる基礎の上に、自分の第三層としての「批評」が存在するにすぎないことを、いつも生徒に明示することが大切である。そのためには私の批評が、歴史との「対話」になっていればよい。第一層・第二層と第三層が、コンクリートの基礎と建造物というイメージではなく、大地(第一・二層)と大気(第三層)のあいだを水のように「ことば」が循環するイメージになることだ。私と歴史の間の「対話」と、生徒と歴史の間の「対話」、そして、私と生徒との間の「対話」から生まれるのが「歴史批評」なのである。
 定期考査のさいに生徒たちが書く「歴史批評」は、私にとって、まるで大学時代の指導教官のアドバイスのような価値がある。私の「歴史批評」の不完全さをズバリ指摘してくれるものもあれば、私の論理をより研ぎ澄ますための方向を暗示してくれるものもある。たとえば、2004年のある生徒(松本深志高校の三年生男子S君)は、本書第59講の授業―作家オーウェルの decency(人間らしさ)とは“人間を見捨てないことだ”という私の「歴史批評」―に対して、このように彼自身の「歴史批評」を書いた。

 「(…)私たちは誰もが見捨てないでほしいと願っていることを知っているし、そのような意識がある。だがどちらかを見捨てずにいるべきだとすれば、どちらかを見捨てることにならざるをえまい。結局、“誰もが人間らしさを求める”という意識をもって実行するほどに、行動の結果は私たちの意識との分離を生み出してしまうのだ。(…)」

 S君は反ファシズムの戦いに身を投じたオーウェルの decency(人間らしさ)を高く評価した私に対し、でもオーウェルはファシズム陣営の人間を“見捨てたのではないか”と反論しているのである。ヒロシマ・ナガサキの原爆投下は正当化されるのかという問題にもつながる指摘であろう。こうした生徒の問いかけに対して、私がいかに応答したのかということは、実際に本書の第59講を読んでいただくしかない。私が緊張感とともに授業に臨んでいるのは、ひとえに「世界史との対話」を楽しみ、かつ、おそれているからにほかならない。
 対象とする歴史を具体的な事実を検証しながら語るため、どうしても下巻は一つ一つの講義が長くなってしまう。日本アルプスの険しい稜線を一歩一歩慎重に登るような感覚になる。…では、講義を始めよう。

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